(2001年1月25日発行)
目 次
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新世紀と背筋伸ばし対峙する
会長 後藤 昌男
二十一世紀と正面から向かい合って、私は今、みんなの力で立ち上げ、みんなの力で新世紀に歩を進めた本会の存在意義をかみしめながら、本会を構成さる全ての皆さんと、本会の運動を支えて下さっている関係各位に心から敬意を表し、「御苦労様、ありがとうございます」と申し上げます。
さて、私たちにとって、二十一世紀の扉は、緞帳を持ち上げる時の、あの足腰の力が必要でした。なぜなら二十世紀に残してしまった「負の課題」をずるずると、何時までも、ひきずって生きることをしたくないと思うからです。昨年、よく耳にした「楽しく」という言葉がありますが、私たちの会もそうありたいと思います。しかし、「ゆっくり」と同義語ではありません。
一つに、近づくDPI世界会議を成功させるため、果敢に協力共同して急がねばならぬ課題があります。
二つには、全国的にみても、高齢化のスピードが早い北海道にあって、高齢社会への対応です。障害者を中心に取り組んできた活動を、高齢者の生活アクセスにふくらませ、統合していく課題の運動が見えていません。
もう一つには、IT革命と、ロボットによる新しいコミュニケーション社会が急速に進行することが、「新しいバリア」をつくることにならないように、参画と点検を怠らない課題があります。
言うまでもなく、公共交通機関、道路、建築物、情報、制度等々のバリアフリー化は、人間の考え方や想像力に影響し、新しい世界に欠かせないエネルギーをつくり出していゆく源泉です。その観点に立って二十一世紀の幕開けにふさわしい、さわやかに力強い活動を、みんなでつくり上げてゆきましょう。
「交通バリアフリー法」をつくらせた運動の輪を、さらに大きくし、真の平和と人権を確立する世紀にするよう、がんばりましょう。
この度、(財)日本船舶振興会(日本財団)からトヨタハイエース、ウェルギャブ車いす仕様車(八名乗り内車いす二名)の助成交付を受けることができました。感謝して、みんなでおおいに有効利用させていただき、これを機に新しい活動を切り開いてゆきたいと考えています。
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200年3月1日有珠山噴火災害
==交通権の取り組み==
年があけても1,700人もの人々が避難生活にあるという。
避難所の冬の生活を思いながら、一日も早い復興の春を願わずにはいられない。
以下、私たち「交通権」の取組みについて報告します。
〔1〕「緊急要請書」の提出と、その後の経緯
・3月31日 知事宛提出(噴火した日)。
予知により避難がはじまり、その段階で提出を準備していた。
要望項目
1 障害を持つ人の避難及び移動の援助に万全を期すこと。
2 障害を持つ人の避難所生活に特別な配慮を行うこと。
3 障害を持つ人及び家族の要望を聞き対応すること。
4 必要に応じて、ボランティアの組織活動を行うこと。
5 緊急医療体制を整えること。
・4月4日 事務局会議
・4月5日 会長、事務局長、道、保険福祉部担当係と要望書について話し合う。
・6月28日 事務局と同情担当と話し合う。
・10月7日 バリアフリー仮設住宅見学点検。
(虻田、高砂、伊達船岡各地域へ、伊達肢体不自由児者父母の会及び
虻田健康福祉センターの案内を受けて、事務局4名)
〔2〕仮設住宅見学点検のときのメモから
@仮設住宅について
・バリアフリー仮設住宅建設が最後になったのはどうしてか。
・障害児をもつ家庭を優先的に入所させてもらう事にならなかったのが残念だった。
(カテゴリー1の優先)
・建設が遅れたため(安全場所の決定のおくれ)建てられたが、入居する人がいない状況が生じた。
・入居後、入居者に合わせる作業が必要(洗面台、台所、手すり、押し入れの仕切りの高さなど)
・二重窓になっていたが、晩秋、冬には、床が冷えるのではと心配。
・外部通路の舗装について良くできていたが、残っている部分があって残念。
A連絡について
・避難後の所在場所の連絡を集中することは極めて大切。会員の所在を把握するまで一ヶ月もたって、テレビ放送の画面の中で見つける様な状況だった。
Bボランティアについて
・自治会を中心に、地元の人たちの組織をもず立ち上げることが大切。そこに外部からの応援ボランティアが上手に組み合わさることが大切。
C支援物資について
・必要とする人が病院に入ってから、おむつが届くという状況があった。
・家に帰ればあるのに、買わなければならない物がたくさんあった。共同使用の工夫が必要。
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D心のケアについて
・避難場所から学校に通う子供たちは、先生も友達も変わり、とまどっていた。ご飯もあまり食べず疲れたという子供もいた。
・不眠、労災の相談150件も。(4/7道新)
〔3〕災害時における、高齢者・障害者に対する支援対策マニュアル(道保険福祉部発行)にてらしての所感
・すばらしい内容のマニュアルだが、それが地域で生きていない。道にマニュアルがあることすら知られていない。
※ 現地において実施しておかなければならないと考えた事項
@平時
・障害者(災害弱者)を加えた避難訓練。
・情報伝達、避難誘導のきめこまかな支援対策。
・地域コミュニティ(周囲の人との協力関係)をつくっておく。
・災害弱者への連絡網をもつ。
・情報集約体制の確立(特に市役所、町村役場の避難時も予想して)
・医療体制については特にきめこまかに準備する。
・避難所の周知徹底とバリアフリー化、点検活動体制。
・冬季間の発生にそなえての対策。
A発生時
・誘導、避難の状況把握。
・対策本部と相談窓口の設置と対応及び情報の収集。
B発生後
・避難所、仮設住宅での生活の実態把握。
・仮設住宅のバリアフリー点検、改善。
・周辺市町村の支援。
・災害弱者、家族への配慮と、支援が行き届いているかのすみやかな調査と対応。
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『2000年11月24日〜26日 in 神戸』
ミレニアムひまわり号全国交流会
20年の歳月を経て、全国津々浦々で人と人との絆を紡いできた、20世紀最後のひまわり号全国交流会が全国各地から33実行委員会172名の方々が参加して、6年前の震災の傷が癒えない神戸市で開催されました。
突然降りかかった、あまりにも大きすぎる困難と闘い、見事な復興の過程をこの目で確かめることが出来たことは、参加した私たち自身がどれ程大きな励ましをいただいたか知れません。
「生かされて生きる喜びをかみしめた」あの震災
シンポジウムでは、シンポジストの方々によって当時の状況がリアルに語られました。震災という予期せぬ事態の前で、障害者は健常者よりも遥かに不便な避難生活を強いられる事実が西垣さん(障害者)によって体験的に語られました。また、西垣さんは自らの体験を通して「生かされて生きる喜びをかみしめた」と語り、あの震災のなかでは「生きている人も亡くなった人も紙一重の状況のなかにあった」と言われました。
「2〜3日後には避難所から障害者がいなくなった」
井上さん(障害者団体事務局長)も、盲学校の教師・障害者団体事務局としての目線からあの震災を語っていただきました。こうした事態の時、障害者や高齢者はどのような状況下におかれるのか、予想することは難しくありません。「2〜3日後には避難所から障害者がいなくなった」というお話しは、あまりにも説得力がありすぎました。一方で、行政による安否確認が一ヶ月後という事実も、こうした緊急事態に対する対応としては、はなはだ不十分・不適切な行政システムの不備として、厳しく指摘されていました。この問題については、「立派な震災マニュアルがあっても機能しなければ何の役にも立たない」と、あらためて「生きたマニュアルづくり」が、今後全国各地で取り組むにあたっての、神戸の教訓からくみ取るべき大きな課題として位置づけなければならないと思います。あわせて、日頃の地域でのつながりや「声掛け」「支え合い」も、こうした事態の時に大いに活きていた数々の事例を知らされました。
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「人の役に立つ」ことが人間の最後の生きがい
市川さん(老人ホーム施設長)は、日頃から「人権を守る」「民主的運営」という大きな柱で施設運営を心がけておられる。その事が、この度の緊急時に大いに活かされていたということを、お話しの中から伺うことが出来ました。震災後の対策として次々に取り組まれたことの一つ一つが、この二大方針にもとづいて具体化されていったものと思われます。市川さんは、「人の役に立つ」ということが、全ての人間の最後の生きがいであるはずだと言われました。あわせて、「安心」が人間生活のキーワードだともいわれました。
バリアフリーの質的な見直しが求められる時代
「街づくり」の分科会が行われました。昨今、施設のバリアフリー化がすすむ中で、バリアフリーの質的な見直しが求められる時代になっています。制度のバリアフリー・心のバリアフリーという言葉がよく聞こえてきます。これまでのひまわり号が、この点で果たしてきた役割は少なくないと思います。バリアフリー法といっても、まだまだザル法と指摘されています。本当に安心して住み続けられる街づくりのために、まだ走らせるだけで精一杯という実行委員会も、もう一歩踏み出す努力をみんなの力でして行けたらと思います。
「組織づくり」の分科会がありました。多くの実行委員会がボランティアを集めることに苦労しているのは共通しています。なかでも、「神戸の震災以降、ボランティアの質が変わった」という報告がありました。お金を出さないのがボランティアというように、一斉にメディアによって取り上げられた「震災ボランティア」のイメージが一人歩きして、お金を出して共に楽しむというひまわり号のボランティア像が、一般に受け入れられにくい状況が一方でつくられているのでしょうか。
地域で全国で一層の絆を強める運営と運動の発展を
また、「震災を考える」分科会がありました。午前中、6年前の傷跡が残る街を自分の目で確認し、午後の討論がされたわけですが、前日のシンポジウムとしっかりと繋がった神戸らしい企画となったものと思います。この貴重な経験を通して、「心のケア」「緊急時の防災マニュアル」の大切さが十分に理解できたものと思います。シンポジウムで「日頃出来ていないものが、緊急時に出来るわけがない」という発言にあったように、私達の取組みも、地域で全国で一層の絆を強める運営と運動の発展に努力することが求められていると思います。
交流会の前に最も深刻な打撃を受けた長田・須磨の地域を、一時間ほど地元の方の案内で歩かせていただきました。アーケード街の屋根には焼けただれた雨どいが垂れ下がり、未だ戻って来れない住宅地が瓦礫のままに放置されているなど、胸の締め付けられるような光景を目の当たりにしました。しかし、商店街に足を入れると活気溢れる住民の方々の必死な姿がありました。皆、苦しみや辛さをバネにして生きている。私達は、人間同士の醜い争いと画期的な文明の進化が交錯した20世紀の締めくくりにふさわしい場所で、全国の仲間が集うことが出来た無情の喜びを感じました。
「誰かがするだろう」ではなく、「自分がやらねば」
被災地を訪れたときにいただいた一冊の写真集のなかで「何かが起こったときに、たいていの人は誰かがするだろうと考える。しかし、なかには自分がやらねばと思う人もいる。歴史をつくっていったのはそういう人たちだった」という一文がありました。
シンポジウムで、私達が住むこの社会がまだまだ住み難く暮らしにくい社会であることが口々に語られました。私達がやらなければならないことはまだまだ沢山あります。しかし、ひまわり号はまず第一に「何より楽しく安全に旅を楽しむ」ものでなければなりません。参加する人のそれぞれの立場と想いが大切にされた一日・二日を共有することを通して、私達の住む社会の足下が見えてくるのではないでしょうか。その時に、「誰かがするだろう」ではなく、「自分がやらねば」と思う人が一人でも増えていければ、私達の住む社会も地域も確実に変わって行くはずです。
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豊平公園の点検に参加して
カエデの葉がきれいに紅葉した10月5日、2002年札幌で開催されるDPI世界会議のメイン会場になる「きたえーる」に隣接する豊平公園の点検を行いました。
豊平公園は広さ約7haでコミュニティ広場として地域住民が身近に利用できる「地区公園」(住区基幹公園)です。いくつかの気がついた点がありましたのであげますと、
@点字ブロックがあっても敷き方に誤りが多く、またそのブロックの上にプランターなどの設置物があり危険だ。
A公園中央の遊具広場に公衆トイレがあるものの、車いすトイレがない。また水飲み場などが車いすでは使えない。(車いすトイレは緑のセンターにはありますが。)
B地下鉄駅側の出入口の歩道は傾斜がなだらかでよいが、そこ以外の出入口は傾斜がきつい(20%前後あり)
C車いす用駐車場が確保されているものの、緑のセンターへの園路入口の傾斜がきつい(20%弱)
D案内標示が少ない。また目の不自由な方用の「触知図」がない。
E「きたえーる」側の出入口の改修、新設をしてほしい。
豊平公園は災害時には地域住民の大事な避難場所になるのだから、それらを念頭に入れて整備をしてもらいたい。早急に、公園を管理する市公園管理課と意見交換をしたいと思います。
(榛 葉)
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━ 第18回DPIアジア・太平洋ラオスリーダシップトレーニングセミナーに参加 ━
ラオス・アジア障害者の現状
ラオスで第18回DPIアジア・太平洋リーダーシップトレーニングセミナーが200011月年15日(水)〜19日(日)にかけて開催された。DPI世界会議には5つのブロックがあり、日本の属するアジア・太平洋ブロックの国々から26ヶ国約40名の各国のリーダーが参加し、自国の障害者問題について現状報告や検討がおこなわれた。
日本からはDPI日本会議議長、常任委員2名、介護者2名とDPI札幌組織委員会から私の6名が参加した。
私にとってアジアの障害者問題に触れたのは今回が初めてのことで、人からの情報としては聞いていたのだが、実際に現状を見てみたいと思っていたので興味を持って参加した。
各国の代表は英語が堪能なため英語のわからない私には話し合った内容がハッキリわからなかったが、途上国での遅れた障害者の実態が各国から報告された。ラオスの印象は首都ビエンチャンでようやく道路の舗装工事が行われ始めたばかりで、障害者がどのような生活をしているのかは、街で姿をみかけなかったので分からなかった。出発前に「ラオスには車いすや体温計がないので持っていった方がよい」と言われ、車いす1台と体温計を持っていったが、障害者の状況はかなり遅れていると思う。現地の日本人シニアボランティアの話しでは、朝早くか暗くなる頃に手作りの車いす(地面を手で漕ぐ低い車いす)で障害者が出ていたのを見かけたと言っていた。
2002年のDPI札幌大会でも途上国の障害者の問題も話し合う予定だが、日本としても経済・技術支援を必要だと思う。
2年前の「110番」に寄せられたお葉書より
拝 啓
寒さが厳しくなってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。覚えていらっしゃいますか。
私は貴殿のお計らいで実現した事があります。中の島環状通りの橋の下で美容室を営業しており、通る車から空き缶が、歩道から雪だまをぶつけられ、わざわざ査察に来て下さったのをようやく札幌市豊平区土木課が重い腰をあげて下さり、十月に一部、十一月初旬にサクを作ってくれました。担当された役所の方もご同情下さり、話をていねいに聞いてくれました。ケガをされた方との訴訟は続いていますが、一つ解決した事は、以後空き缶が飛んで来ないという防護になるかと思われます。マスコミが注目していた件だけに、うれしい限りでございます。これも皆様の暖かいご支援かと思い深く感謝しています。「無理かな?」と思い、あの場所で美容室をするのは神経を使わなければならない、そう思い私は平成十四年開校の美容学校の教員になることを決断しました。せっかく作って頂いたので、これからは週二度くらいの営業かと思われますが、住所は変わらないので、ひとまず安心して睡眠がとれるという事、生活権が守られる事で皆様に深く御礼を申し上げます。取り急ぎ乱文乱筆でありますが、お礼にて失礼します。本当にありがとうございました。
敬 具
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日本財団から福祉車両の寄贈を受けて
かねてから申請してあった福祉車両の助成について、このたび日本財団から審査の結果、本会に助成を決定したとの通知をいただきました。
今までの活動に加えて、会員及び障害者・高齢者の移送サービスに貢献する活動の必要性を痛感していただけに、誠にありがたい決定をいただきました。昨年末、東京での契約を終え3月中旬ころまでには車両本体がメーカーからとどき、諸手続きを済ませば、すぐにでも利用可能になります。
現在、事務局で「利用規定」のようなものを考えているところですが、出来上がったら皆さんに周知し、みんなで大いに利用し期待と要望にこたえられる活動をつくりたいものと思っています。
寄贈車種は下記のとおりです。
トヨタハイエース ウェルキャブ車いす仕様車
8名乗り(内、車いす定員2名)4WDディーゼル3000cc
事務局だより
10月10日 交通権事務局会議(かでる2・7) 19:00
かでるとの話し合い、
伊達・虻田視察日程
会報の発送日
10月12日 かでる2・7と点検結果について話し合いを持つ
10月17日 虻田有珠山噴火障害者避難住宅などの視察
11月 2日 交通権事務局会議(かでる2・7) 19:00
11月 5日 きたえーる、豊平公園点検
要望書の内容検討
きたえーる・豊平公園点検について
11月28日 交通権事務局会議(かでる2・7) 19:00
札幌市要望書提出検討など
12月12日 交通権事務局会議と忘年会
センチュリーローヤルホテル 18:30
12月19日 日本財団車両寄贈説明会(東京)
後藤・宮下
1月10日 交通権事務局会議(かでる2・7) 19:00
110番の日程、準備について
会報の原稿分担など
編集後記
二十一世紀を迎えました。
鉄腕アトムを見て育った私(年代がわかってしまいますね)は、二十一世紀というと、遠い未来都市というイメージがありましたが、たしかにIT時代に突入し近いものもあります。障害者や高齢者用の福祉機器の開発も目覚ましいものがあり、費用さえかければ便利な生活も、できるようになって来ました。
交通権としては日本財団から福祉車両を寄贈されて、これからどう有効に活用していくか、またDPIの実行委員と専門委委員会のメンバーとなり、今年はさらに活動が拡大していきそうです。DPI札幌会議を成功させて、これをきっかけに北海道が日本が誰にとっても住みやすい、優しい国になっていけたらと思います。
新しい世紀、誰もが良い方向に行って欲しいと願っています。一人一人が願えば希望のある二十一世紀になるでしょう。(S)
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